ネットワーク発掘 第15号
平成15年2月
平成14年12月14日(土)・15日(日)、青森県埋蔵文化財調査センター(以下「県埋文センター」)と県公立発掘調査機関連絡協議会主催の県埋蔵文化財発掘調査報告会が、青森市内にある県総合社会教育センターで開催されました。
例年開催されている発掘調査報告会は、県内の発掘調査の動向を知る上で重要なもので、楽しみにしている県民も多く、今年度もまた、2日間で300名以上の参加者で、賑わいを見せました。
第1日目は、午前9時30分、初めて企画されたミニ・シンポジウムが、佐藤良治県埋文センター所長の挨拶で幕を開けました。テーマは、「この遺跡はここまでわかった」で、三内丸山、小牧野、是川中居の3遺跡について、会場も一緒になって熱い議論が交わされました。
午後1時からは、スライドやパソコンと連動したプロジェクターによる報告が行われました。
1日目の報告は次の8遺跡でした。野辺地町向田(18)遺跡(縄文時代前期の木胎漆器・装飾品ほか−野辺地町教育委員会)、青森市近野遺跡(縄文時代中期におけるトチの水さらし場−県埋文センター)、八戸市笹ノ沢(3)遺跡(縄文時代中期の集落跡−県埋文センター)、青森市朝日山(2)遺跡(縄文時代晩期の籃胎漆器・玉類等の副葬品−県埋文センター)、八戸市是川中居遺跡(縄文時代晩期の泥炭層出土の赤漆塗り櫛ほか−八戸市教育委員会)、東通村安部遺跡(洞窟遺跡−慶應義塾大学民族考古学研究室)、八戸市市子林遺跡(続縄文時代の墓坑−八戸市教育委員会)。
2日目は、午前9時30分から始まり、次の4遺跡が報告されました。青森市宮田館遺跡(平安時代の鉄製品ほか−県埋文センター)、市浦村十三湊遺跡(中世の墳丘墓ほか−市浦村教育委員会)、東通村浜尻屋貝塚(中世の貝塚と加工処理施設跡−東通村教育委員会)、八戸市林ノ前遺跡(平安時代の人骨ほか−県埋文センター)。
一方、遺物とパネル展示の会場は、マスコミで報道されたものをじかに目にすることができるとあって、たくさんの人たちが訪れ、係りの人に質問したり、写真に収めたりしていました。
ミニ・シンポジウム『この遺跡はここまでわかった』
−三内丸山・小牧野・是川中居−
青森県教育委員会が本格的に発掘調査を始めてから30年という節目の年を迎え、これまでの調査を振り返るミニ・シンポジウムは、「この遺跡はここまでわかった」というテーマで行われました。
県内の遺跡で継続的に調査をしてきた縄文時代にスポットをあてて、中期の三内丸山、後期の小牧野、晩期の是川中居の三遺跡についてこれまでの発掘調査で「何がわかり、何がわからなかったのか」と会場も一緒になって討論が行われました。
シンポジウムは、佐藤良治所長の挨拶で始まり、各遺跡担当者の発表の後、質疑応答・討論が行われました。司会は福田友之氏(県埋文センター)、コーディネーターは成田滋彦氏(県埋文センター)、パネラーは、三内丸山遺跡担当の秦光次郎氏(県文化財保護課三内丸山遺跡対策室)、小牧野遺跡担当の児玉大成氏(青森市教育委員会文化財課)、是川中居遺跡担当の工藤竹久氏(八戸市教育委員会文化課)でした。
<成田滋彦氏の発表> 縄文時代草創期から前期に至る県内の動向
縄文時代草創期段階の遺跡は太平洋岸に分布が多い。早期の遺跡は、奥羽山脈を境として太平洋岸に集中する。前期の遺跡は、それまで遺跡の希薄であった日本海側の地区にも多く分布する。
<秦光次郎氏の発表> 三内丸山遺跡保存決定後の調査成果について
集落の全体像解明を目的とした調査が現在も継続しており、住居域、墓域、盛土遺構・捨て場、掘立柱建物跡など、集落の全容がだいぶ明らかになってきている。
<児玉大成氏の発表> 小牧野遺跡の発掘調査とその成果
三重構造の環状列石、竪穴住居跡や貯蔵穴群、捨て場跡、道路状遺構、湧水遺構など生活維持に必要な遺構や、土器棺墓や土坑墓群など墓制に関わる遺構が検出されている。
<工藤竹久氏の発表> 是川中居遺跡の発掘調査
低湿地の調査を通し、遺跡からいかに情報を引き出すか、植物性遺物の取り上げと保存、広い研究分野を包括した調査を構築し晩期文化を総合的に復元するのが調査の課題である。
<質疑・応答・討論の内容>
三内丸山:遺構配置図と模式図との関係、時期と土器型式、時期と住居軒数の推移、土坑墓と道路の時期と遺物、溝を持つ環状配石墓と階層、墓と副葬品としての糸魚川産ヒスイなど
小牧野:遺跡の最終形態にいたる時間の経過と土器型式、環状列石の下部の調査、環状列石周辺の遺構の密度、考古学と民俗学の関係など
是川中居:是川遺跡と弥生時代
その他:会場から、縄文時代で「階層」という表現をしているが、階層があったのかどうかという質問があった。
なお、シンポジウムについては、「これからも続けてほしい」という声が多く寄せられていました。
<発掘調査報告会発表遺跡の紹介>
青森市近野遺跡 ―縄文時代中期のトチの水さらし場遺構―
遺跡の概要 近野遺跡は青森県総合運動公園内にあり、国指定特別史跡三内丸山遺跡と隣接しています。標高18メートル前後の段丘面に位置し、遺跡の中央には沖館川に続く大きな谷が入り込んでいます。
今年度出土した遺物の総数は、ダンボール箱で約600箱ほどです。縄文時代や平安時代の土器石器、木製品などが主ですが、谷から出土したヒスイの原石(重さ850g)が特筆されます。
検出された遺構は、縄文時代の竪穴住居跡17軒、平安時代の竪穴住居跡30軒、土坑121基、掘立柱建物跡8棟、埋設土器3基、溝跡7条などです。これらは台地上の遺構ですが、中央の谷の底面付近から確認されたトチの水さらしに関連すると思われる遺構が注目されます。
トチの水さらし場遺構について 中央の谷の下流域、支谷の水の流れとの合流点付近で、大きさ1.7×1メートル程の箱型の木組み遺構が検出されました。近接してトチの種皮の集積も確認されました。周辺からは石皿や磨り石・凹み石、復元可能な土器なども出土しています。これらの石器はトチの加工に、木組み遺構は水さらしに関連するものであった可能性が考えられます。周辺の土器の出土状態から、これらは縄文時代中期後半のものと推定されます。台地上にある同じ時期の集落と関連するものであった可能性も考えられます。これらは縄文人の食生活や水の利用を考える上で極めて重要なものであることから、遺跡の一部は保存されることになりました。 (県埋文センター 杉野森淳子)

東通村安部遺跡 −縄文時代の洞窟遺跡−
安部遺跡は、尻屋崎の約5キロメートル南にある石灰岩の洞窟遺跡です。これは特に旧石器時代の遺跡・遺物の分布調査を行う過程で見出した6つの石灰岩洞窟の1つです。この洞窟は、太平洋岸や尻労(しつかり)集落に最も近く、かつてオオツノシカの下顎骨化石が出土した石灰岩採石用トンネルの入口に近接しています。昨年、私たちが行った「試掘」によって、表土層から縄文時代の土器(中期・後期)が検出されましたので、「安部遺跡」として新たに登録したものです。この洞窟は桑畑山の南麓、標高約30メートルのところにあり、開口部の高さ・幅・奥行はいずれも約2メートルの比較的小規模なものです。前庭部は日当たりがよく、太平洋と南に延びる海岸部の眺望もきくところです。
今夏実施した発掘調査では、短期間ながら6平方メートルを約1メートルの深さまで掘り進めました。その結果、縄文時代後期を中心とする土器片とともに、石器・人骨・骨角器・獣骨・魚骨・貝類などが発見されました。発掘した表土以外の土壌はすべて約3ミリメートルメッシュのフルイによる水洗を行い、これによって、人骨をはじめ、小形石器・骨角器などの重要遺物や大量の獣・魚骨類の多くが検出されたのです。遺物のうち、特に人骨と土器については、中島全二氏の試掘時にも出土したという事実が、その調査に参加した方(当時田名部高校生)の談話で確認されているため、これと強く関連するものと考えられます。人骨は成人と乳(胎)児の最少でも2体の一部が出土していること、骨角器などに精緻なつくりのものが目立つ点などを勘案しますと、埋葬施設や副葬品としての性格にも留意しつつ、今後の調査を進めていく必要があると考えています。また、縄文時代中・後期を中心とする土器片は包含層の上部に多くみられたため、さらに下部に堆積している層準に、より古い時期の遺物が発見できるかどうかなどに照準を合わせた調査を計画しております。 (慶應義塾大学民族考古学研究室 阿部祥人)
八戸市是川中居遺跡 −泥炭層から多数の植物質遺物−
是川中居遺跡は八戸市の南東部、新井田川の左岸、標高15メートルほどに位置しています。今年度は、国指定史跡(G区2,000平方メートル)・泥炭層(H区96平方メートル)・縄文学習館菜園(I区150平方メートル)の3ヶ所、計2,246平方メートルの調査を行いました。
G区では、縄文時代中期のフラスコ状土坑、晩期から弥生時代初頭の住居跡、古代の住居跡等が見つかりました。H区は、平成12年度のC区で確認した「南の沢」とその沢を埋めている泥炭層の調査を目的として行いました。その結果、沢は一番深い場所で地表から約3.5メートル、幅9メートルほどということがわかり、さらに沢を渡った南岸には、沢と平行する溝が3条見つかりました。また長さ4.2メートルを超える木柱や、壁か屋根と考えられる木組み、沢の南岸付近には連続して打ち込まれた杭が見つかり、水場を考えるうえで貴重な発見が相次ぎました。泥炭層からは、縄文晩期初めの土器や石器と共に、赤漆塗りの櫛・弓・腕輪や樹皮製品、籃胎漆器や撚り紐、籠状の組物や箆状木製品のほか、1,000点を超える加工木材が見つかりました。H区は来年度も継続して調査する予定です。I区の東側では、昭和49年の調査により縄文時代後・晩期の土坑墓4基と赤色顔料で赤く染まった人骨が8体確認されていましたが、今回の調査でも土坑墓が11基見つかり、墓域が西に広がることが確認されました。土坑墓の1基からは、赤色顔料と粉状になった骨の下から土製の耳飾りが2点出土しました。
注目の遺物はたくさんありますが、H区泥炭層から多数出土した漆塗りの樹皮製品が特に目を引きます。うち1点は、長さ40センチメートル、幅30センチメートル、厚さ3ミリメートルと大型で、木から剥ぎ取った皮(樹皮)に赤と黒の漆を重ね塗りし、端の部分に約3センチメートルの等間隔で開けた孔から3本のひもが放射状に伸びています。全体の形はまだわかりませんが、3本のひもで他の部品と結合させるといった繊細なつくりの漆塗り樹皮製品は、ここでしか見つかっていない優品です。 (八戸市教育委員会 小久保拓也)
八戸市林ノ前遺跡 −平安時代後期の特異な集落跡−
林ノ前遺跡は、八戸市の北西部の浅水川に面した丘陵斜面部(標高30〜45メートル)にあります。これまでに平安時代の竪穴住居跡114軒、土坑621基、鍛冶遺構4基、円形周溝2基、堀跡1条、その他に焼土遺構や溝跡、縄文時代の溝状土坑が検出されています。
竪穴住居跡は、ひな壇を作るように斜面地に何段にも並んで建てられています。何回も建て替えが行われていますが、段からはみ出るものは無く、竪穴住居を建てる際に約束事があったようです。土坑には約束事が無かったようで、掘っては埋め戻し、また掘り返す行為を調査区の全域で繰り返しているため、調査が終わった部分は穴だらけになりました。堀跡は調査区西側の崖際から見つかりました。堀跡の南北端は崖側に曲がって途切れていますが、崖の部分は本来丘の頂上にあった部分ですので、この堀跡はその丘を囲むように掘られていた環壕と思われます。
遺物は堀跡から纏まって出土した土師器の小皿が県内でも出土した例が少なく、注目されます。また丘陵上の遺跡では残りにくい有機物の遺物が多量に見つかっています。特にウマを中心とした獣骨が目立ちます。鉄製の馬具も出土しているので、林ノ前遺跡はウマに関連する集落であったといえます。また鍛冶遺構の発見、それに伴う羽口や鉄滓も多数出土したこと、鉄製品が非常に多いことから、この集落で鉄製品が作られていたことがわかりました。最も注目されるのは平安時代では非常にまれな人骨の出土です。しかもこれまで見つかった9体の内、7体までが頭蓋骨だけで見つかっています。残りの2体も変わった埋まり方をしており、何か特殊な事情があったのかもしれません。
林ノ前遺跡は来年度も調査が予定されており、特異な集落遺跡の全容はこれから明らかになるものと思われます。 (県埋文センター 浅田智晴)

市浦村十三湊遺跡(檀林寺跡) −区画溝・土塁・墳墓を確認−
檀林寺跡は、十三湊遺跡の南端、十三湖に面した場所にあります。昭和15年頃の太平洋戦争中に、食料増産目的とした開墾中に礎石(8ヶ)が発見されたことによって、遺跡として知られるようになりました。また、この辺りは古くから「隠居跡(いんきょあと)」と呼ばれていた場所で、かつて十三史談会(地元郷土史研究会)によって、茶臼や五輪塔の一部など数々の宗教遺物が発見されており、寺院跡として裏付けられていました。これまで昭和51年に早稲田大学が檀林寺の中心部分を、平成12年度に青森県教育庁文化財保護課が県道拡幅に伴う周辺部の調査を実施しています。
檀林寺跡の構造は、今年度の試掘調査や過去の檀林寺調査の成果を踏まえると、少なくとも大きく土塁で囲まれた空間と、今回新たに見つかった東西50メートル,南北65メートルの区画溝(屋敷跡)を伴っていたことが明らかとなりました。
区画溝内では遺構や遺物が少なく、隣接して塚墓(墳丘墓)が造成されるなど、宗教的空間であったと推定されます。また、区画内には社殿と推される区画施設も発見されました。
一方、土塁で囲まれた空間は細かい屋敷割りが行われ、井戸・竪穴遺構?・掘立柱建物や土坑(ゴミ捨て穴)などが発見されたことから、日常生活に関わる寺院の居住域であったと推されます。出土遺物は14世紀末〜15世紀前半代のもので、中国褐釉壺(茶壷)・天目碗や青磁香炉など高級な陶磁器が多く出土しています。 (市浦村教育委員会 榊原滋高)

東通村浜尻屋貝塚 −中世の貝塚、骨角器・鉄製品(漁具)多数出土−
浜尻屋貝塚は下北半島北東端の尻屋崎に位置し、標高約8メートルの低位かい海がん岸だんきゅうじょう段丘上に立地します。
調査は平成7年に東通村史編纂の一環として実施し、14〜15世紀に形成された中世のアワビ貝塚であることを確認しました。中世のアワビを主体とする貝塚は他に類例がなく、当時の漁業や交易を考えるうえで重要な遺跡であるため、平成12年度より遺跡の範囲確認・構造把握を目的とする学術調査を実施しました。
これまでの調査の結果、遺跡の年代は14〜16世紀前葉で、遺跡範囲は約15,000平方メートルであることが分かりました。また、ボーリング調査により貝塚を約10カ所確認しました。
貝塚調査では、貝層中に含まれる遺物・獣魚骨の検出や貝層の堆積状況を観察しました。貝塚は、アワビ貝が主体で形成されており、殻長2〜3センチメートルの稚貝や7センチメートル前後のアワビ貝が幾層にも堆積し、貝層の厚さは最大で約1.2メートルにもなります。
貝塚に近接する平坦面からは、居住・生活空間を確認しました。遺構は掘立柱建物跡・カマドなどを複数検出しています。これら遺構は大量のアワビを主とする海産物の加工処理施設と考えています。
遺物としては、陶磁器・骨角器(こっかくき)・鉄製品などが出土しています。陶磁器は中国産の青磁・白磁や国産の珠洲焼(すずやき)などで、15世紀代の遺物が量的に主体を占めています。また、漁業道具としての骨角器が多数出土しているという特徴があります。 (東通村教育委員会 小山卓臣)

平成14年度 青森県公立発掘調査機関連絡協議会総会報告
平成14年11月15日(金)、青森市中央市民センターにおいて、平成14年度青森県公立発掘調査機関連絡協議会総会が21機関32名の出席で行われました。総会は、佐藤良治会長(青森県埋蔵文化財調査センター所長)の挨拶に始まり、平成14年度事業報告、平成15年度事業計画(案)について審議、承認を得て終了しました。以下、概要を報告します。
<平成14年度事業報告>
1 会 議:理事会(5月21日)、総会(11月15日)
2 情報の交流:機関紙(年3回発行)、ホームページ(随時更新)、情報交換会(12月14日)
3 研究会:(7月29日)講師−谷口康浩(國學院大学講師)、
内容−「放射性炭素年代測定法の考古学における利用法とその問題点」
4 青森県埋蔵文化財発掘調査報告会:青森県総合社会教育センター(12月14日・15日)
5 機関紙「ネットワーク発掘」(第13・14・15号)・研究紀要(第8号)の発行
6 会員機関所有機器の相互活用:エックス線撮影、木製品保存処理、水洗選別など
< 平成15年度事業計画(案)>
1 会 議:理事会(5月予定)、総会(11月、県文化財保護課主催の県埋蔵文化財担当者研修会の開催日を予定)。
2 情報の交流
(1)基本情報の収集
当該年度発掘調査計画・前年度刊行報告書・担当職員・主な発掘成果等は、各機関の協力を得て、事務局で収集し、機関紙「ネットワーク発掘」及びホームページに掲載。
(2)随時情報の収集
全国公立埋文協、同北海道・東北ブロック研修会、県内の遺跡見学会、研究会、博物館の特別展示、発掘調査の途中経過(新発見情報)等の情報を収集し、ホームページに掲載。
(3)情報交換会の開催 平成15年12月13日(土)を予定。
3 研究会の開催 8月頃に県埋文センターの調査員を講師にむかえて研究会を開催する。
4 青森県埋蔵文化財調査報告会
平成15年12月13日(土)・14日(日)に青森市の県総合社会教育センターで開催予定。
5 機関紙・研究紀要の発行
(1)機関紙「ネットワーク発掘」に協議会が編集協力機関として参画し、情報交流の充実を図る。
(2)県埋文センター発行の「研究紀要」や会員機関が発行する刊行物等への投稿制度を普及させて会員の研究発表の場を拡大し、研究意欲及び資質向上を図る。
6 会員機関所有機器の相互活用と効率化を図る。
出土文化財のエックス線撮影、赤外線写真撮影協力及び保存処理機器等の特別な機器を所有する機関が、その能力を積極的に開放して相互利用を促進し、機器活用の効率化を図る。
<あの人・この人紹介コーナー>
能代谷征則(青森県教育委員会 文化財保護課)
青森市野内生まれの原別育ち。現在37歳の単身者です。 高校卒業後、東京の専門学校へ1年通い、昭和60年4月に八戸工業高校の事務職員として採用になりました。その後野辺地高校、上北教育事務所を経て平成13年4月現職に赴任しました。恥ずかしながら当初は発掘調査自体の中身も知らず、今思うと訳のわからない質問等していたことに赤面すると同時に、ただただ反省しております。関係者の皆様の温かいサポートで何とかここまできましたが、これからはもっともっと自分自身をバージョンアップしなければと思っています。
14年度は試掘、本調査含めて津軽、南部地区計8個所の現場を担当し、中でも八戸の和野前山遺跡(本調査)はメインとして調査しました。報告書刊行は来年度ですが、それに向けて今後も指導、助言等をいただきながら頑張っていこうと思っているしだいです。
何かとご面倒をおかけすることがあると思いますが、どうぞ今後ともよろしくお願いします。
高橋総司(六ヶ所村立郷土館)
大学を卒業し、六ヶ所村教育委員会社会教育課に2年間勤めながら、郷土館オープンに向けての準備作業を行ない、平成3年から現在まで郷土館に勤務しています。最初は郷土館の資料集めで、主に村内の民俗資料を収集しながら民俗中心の仕事をしていました。
ところが、どこでどうなったのかわからないうちに、野辺地町の発掘調査で指導を受け、身につかないうちに村内の発掘調査員になってしまいました。
現在、発掘報告書作成も未だ試行錯誤状態ですが、野辺地の先生から指導を受けながら、発掘に携わっています。これからもいろいろな方々の指導をいただきながら、考古学の勉強をしていきたいと思っています。
葛城和穂(青森県埋蔵文化財調査センター)
学生時代は、あまり勉強もせずに、部活と遊びに明け暮れていました。そのあまりの優秀さが教授の目にとまり、卒業に5年かかってしまいました。こんな私が青森県に採用され、早いもので間もなく7年を迎えようとしています。この間、三内丸山遺跡の調査をはじめ、様々な遺跡の調査を経験しました。これからも多くの遺跡の調査を行なうと思いますが、それらの遺跡の学術的な成果はもとより、その土地の様々な人との出会い、風土や文化も自分の財産にできたらと考えております。
雪の多さに閉口することもしばしばですが、青森ならではの四季折々の変化を感じて仕事ができることに感謝しながら、現在は報告書作成に追われる毎日です。
皆さん、今後ともよろしくお願いします。